カテゴリ:歴史( 26 )

緒方三郎惟栄顕彰会現地研修会

11月1日緒方三郎惟栄を顕彰する会の現地研修会を開催しました。今年は17名の参加があり、宮崎県高千穂町に行きました。
高千穂民俗資料館で中の見学をした後、高千穂太郎の墓に行くことにしました。
大神一族で大神惟基の長男政次(惟政)が高千穂氏に養子となって、高千穂太郎と名乗り以後代々高千穂郷を治めました。
天正19年(1591年)高橋元種によって仲山城を攻められ文禄3年(1594年)に滅亡するまで高千穂郷の主として君臨していました。
高千穂太郎の墓のそばには三田井親武の墓もあります。
そのほか高千穂郷の総社であります高千穂神社に行き、その後旧上岩戸小学校跡に建っている山裏村(上岩戸地区)百姓逃散の碑(豊後岡藩に248人が逃散した)を見に行く予定でしたが、なにせ遠いものですから天の岩戸神社にお参りをして帰りました。

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by hirose580 | 2018-11-14 09:02 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

緒方三郎惟栄講演会

緒方三郎惟栄の総会並びに講演会を開催しました。今年の講師は別府大学の田中裕介文学部教授です。
先生は考古学の専門家でその観点からキリシタン遺跡の発掘などにも、たずさわっており「キリシタン研究の今」と題して講演をしていただきました。
豊後のキリシタンは大友宗麟が自らキリスト教に改宗して洗礼を受け、積極的に布教を広めた時代。
その後キリシタンの禁教令が出て隠れキリシタンとなって潜伏し、豊後崩れでキリシタン信徒ははほとんど壊滅状態になりました。
したがって禁教以前の遺物が現在みられるほとんどのものだそうです。もちろん潜伏キリシタンの遺物も見つかっておりますが、それらはキリシタンと疑われまいとするために、普通の仏教徒の墓に似せて見えない下側に十字を彫り込んだものなどです。
大変面白いお話で90分の時間がすぐにたってしまいました。
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by hirose580 | 2018-05-28 19:47 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

井上主水左衛門並古・並増父子の墓

朝地町近地の山中に井上主水左衛門並古(もんどざえもんなみふる)と井上主水左衛門並増(なみます)父子の墓があります。
井上主水左衛門並古は家老井上並白の養子となり、宝暦3年(1752年)20歳のとき岡藩に仕えました。宝暦14年(1763年)幕府の命令で岡藩が朝鮮通信使の接遇を命ぜられた時、鞆の浦でその応接を行い無事その大任を果しました。
明和8年、藩の銀奉行となり、岡藩札7万両を初めて発行するなど岡藩の金融・財政に大いに貢献しました。
天明3年(1783年)全国的な飢饉のときには英断をもって藩の倉庫を開き多くの飢えた人々を助けました。
並古はこれ以降住まいを朝地町の近地に移して人々を集めて開墾に取り組みました。
藩主中川久貞公はその功を大いにめでて一代家老に任命し兜を賜りました。その偉大な業績を記した碑文が墓の隣に建てられていますが、亀趺碑(きふひ)といって亀の甲羅の部分に碑が乗っているものです。
これは大名などによく見られるものですが、家老の業績を記したものを亀趺碑としているものは珍しいそうです。
また墓は儒教を信奉する人の墓にみられる馬鬛封(ばりょうほう)を伴っています。
子の並増も同じく一代家老となり、彼も父の隣に葬られています。
亀趺碑の上部の龍の彫り物など、200年ほど前に作られた石碑が、風化もせずに今も鮮やかに残っているということは、堅い石と素晴らしい腕を持った石工のおかげでしょう
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by hirose580 | 2018-04-19 22:40 | 歴史 | Trackback | Comments(1)

小富士山の大名墓

小富士山の大名墓にTさんと行ってきました。岡藩の八代藩主中川久貞公の墓所があります。久貞公は寛保3年(1743年)松平家から養子に来ました。
久貞公は寛政2年(1790年)に亡くなりますが、遺言により小富士山に御霊屋(おたまや)を作り葬ることになったわけです。
この人は3代の久清公(入山公)を大変尊敬しており、久清公が大船山の中腹に御霊屋を作り葬られたのにならったものです。
墓の形式は儒教を信奉していたために墓碑の後ろに馬鬣封〔ばりょうほう〕と呼ばれるかまぼこ状の大きな岩があります。
この形式は小富士山に行く途中の保全地山にある家老の中川久豊・久虎のお墓と近所にある中川監物久照の墓にも小ぶりですが馬鬣封があります。
見晴らしもよく景色は良いところですが、一部未舗装が残る道路を整備すると、もっとたくさんの人が来れるところになるのではないかと思います。
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by hirose580 | 2018-04-17 09:10 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

岡城桜まつり

4月2日岡城さくらまつりに行ってきました。今年は桜がまだ咲いておりませんが、行事は予定通り開催されました。
大名行列と甲冑武者行列、それに肥後熊本藩葦北鉄砲隊の演武、それから騎馬武者の早駆けがありました。
TAOの甲冑武者ライブパフォーマンスではすごい太鼓の共演で見ごたえがありました。
途中雨が降ったりしましたが、TAOの太鼓も聞けていい1日でした。
甲冑武者には外人も参加しておりました。
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by hirose580 | 2017-04-03 09:52 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

緒方三郎惟栄現地研修会

11月6日緒方三郎惟栄現地研修会を開催しました。顕彰する会の会員のうち参加者は22名です。
最初の訪問地大分市利光の成大寺跡(じょうだいじ)に到着しました。
ここでは利光史跡保存会の会長さんと事務局長さんが出迎えていただき、早速お話を聞かせていただきました。
成大寺跡には鶴賀城主利光宗魚の墓があります。
鶴賀城は、府内の義統と父宗麟のいる臼杵の中間に位置する要衝です。
ここで激しい戦闘が起こり、島津軍は3000人の犠牲を出します。立てこもった利光宗魚の方にも1000人の犠牲者を出しながらも持ちこたえます。
しかし利光宗魚は、島津軍が多くの犠牲者を出して撤退したのを、やぐらの上から確認しようとしたところ、まだ逃げ遅れて残っていた薩摩兵の弓によって死亡します。
しかし城兵は領主の死を隠してその後も戦いました。
一方豊臣秀吉の命を受けた、四国長宗我部、十河、仙谷の連合軍と大友勢は,功名にはやった軍鑑の仙谷秀久の命令で、12月の寒い時期に大野川を渡河して島津に攻め込みます。
島津は最初負けたと見せかけ退却すると、それに乗じて追撃してきた四国連合軍を挟み撃ちにする戦法で一気に攻め込み、長曾我部信親、十河存保(まさやす)は討死します。
最初に戦った仙谷秀久は諸将の軍を差し置いて讃岐の自分の城に逃げ帰ります。
怒った秀吉は仙谷の讃岐の領地を没収し、高野山に追放します。
長曾我部信親墓については市の大南支所の方から説明をしていただきました。
その後大分市上野の弥栄神社で、緒方三郎惟栄の碑建立のいきさつを、建てた橋本様からお聞きしました。
その後大友遺跡体験学習館で大友の遺跡のお話を聞きました。
色々お話を聞かせてもらい大変楽しい一日となりました。
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by hirose580 | 2016-11-15 11:27 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

現地研修下見

8月28日緒方三郎惟栄を顕彰する会が今年実施する現地研修の場所として、大分市の鶴賀城と長宗我部信親墓、それに、上野の弥栄神社境内にある緒方三郎惟栄碑を選び、その下見のために出かけました。
先ず長宗我部信親の墓に行きました。
ここは天正14年(1596)豊薩戦争の際、秀吉の命令で大友の援軍として四国から渡ってきた仙谷秀久・長宗我部信親・十河存保(そごうまさやす)の軍勢6000人それに大友軍の戸次統常率いる兵とが2万の薩摩兵と対峙しました。
島津家久の戦略により引くと見せかけて一旦退却したところに、それを見た大友四国連合軍が一気に蹴散らそうと大野川を渡って押寄せました。
これを見た島津軍は隠れていた兵を繰り出し、正面からは主力の兵により挟み撃ちにされ、大友軍が大敗を喫しました。
双方合わせて2000人の戦死者を出したといわれています。
この際長宗我部信親は700人の部下とともに獅子奮迅の戦いをしましたが、22歳の若さで戦死してしまいました。世にいう戸次河原の合戦です。
それから鶴賀城に行きました。ここは大友軍の利光宗魚(そうぎょ)率いる3000の兵で薩摩軍の進撃を食い止め最後まで城を明け渡さなかったところです。
城は畝状竪堀群や土塁などを備え堅牢な作りで、この遺構は今でもはっきり残っています。
不幸にして、利光宗魚は物見やぐらで敵情を視察していた時に、薩兵の放った矢で絶命したといわれています。
その後、上野丘の弥栄神社に行きました。弥栄神社の境内には緒方三郎惟栄の子孫だという方が作った緒方三郎惟栄の碑があります。
碑文を見ると胡麻津留一族の緒方三郎ゆかりの方々により建てられたものです。
これらを見て最後に大友氏遺跡体験学習館に行きました。
ここでは大友氏遺跡から発掘したものの展示や映像を使っての説明などがありました。
以上の各地を見学して大変面白い歴史探訪になると思いました。
11月の現地研修が楽しみです。
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by hirose580 | 2016-09-01 05:52 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

緒方三郎惟栄顕彰会講演会

5月14日緒方公民館で顕彰する会の定期総会を開催しました。
総会後前別府大学学長の豊田寛三先生による講演会を開催しました。
講演会には会員39名と一般25名の64名の方が講演を聞きに来てくれました。
今年も昨年同様市教育委員会の後援を受け、音声告知放送と新聞折り込みの案内を入れましたので一般の方も多数参加してくれました。
豊田先生の講演は岡藩における禁教時代のキリシタンと題しての講演です。
慶長17年(1612)幕府による禁教令が出て以降、岡藩においても切支丹の取り締まりがだんだん厳しくなり、寛永10年(1633)伴天連訴人褒美の事として、切支丹の者を御上に訴えれば銀100枚をもらえるといった密告の奨励などが出されました。
寛文11年(1671)踏絵に付申渡覚で町方も村方も坊主・山伏などまでも全員が踏絵をするが、その踏絵は長崎奉行所から借りてしていたのを、岡藩が勝手に複製の踏絵を鋳て作ったことが幕府から咎められ、大問題となりました。
長崎奉行所に複製のすべての踏絵を持参して鋳崩したことなどが書かれています。
切支丹の取り締まりは切支丹であった本人とその時生まれていた子供は本人同然で、キリシタンの親が亡くなってもその子、孫、ひ孫、玄孫までが、切支丹類族として信仰していなくても監視の対象になっていました。
2時間の間先生のお話は大変面白く皆熱心に聞いておりました。
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by hirose580 | 2016-05-16 07:34 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

れきはくが豊後大野にやってきた

れきはくとは大分県立歴史博物館です。1月30日から2月28日までエイトピアの1Fロビーで展示されています。
歴史博物館は宇佐市の宇佐風土記の丘にあり、5つの古墳が周りにあり全部で19,2haという広大な敷地の中にあります。
今回その中の一部を豊後大野に持ってきたものです。
修正鬼会(しゅじょうおにえ)の際に使われる追儺面(ついな)には久安3年(1147年)の文字が裏に墨書されているそうです。そのほか千灯寺の荒鬼面、虚空蔵寺跡出土の鬼瓦や3世紀末に作られたといわれる赤塚古墳から出土した三角縁神獣鏡など展示されています。
博物館には冨貴寺大堂の模型や臼杵石仏のレプリカそのほか六郷満山の仏教文化宇佐八幡の文化などたくさんの展示があります。
一度宇佐に行ってみてもらいたいものです。
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by hirose580 | 2016-02-04 21:29 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

先哲史料館講座

天文学者麻田剛立(あさだごうりゅう)は、1734年~1799年江戸中期の天文学者で医師でした。
豊後杵築藩の儒者綾部絅斎(けいさい)の四男として杵築で生まれました。
幼い時から天体に興味を持ち、宝暦12年(1762年)翌年の9月1日の日食を予報しました。これは幕府天文方による公式の暦にないものでした。
杵築藩主松平親貞の侍医となり、その後藩主が大阪城加番役となり大阪へ行きます。
その後杵築に帰り、安永元年(1772年)藩医辞職を許されないので、脱藩して大阪に行きます。
大阪で麻田と改姓、医師として働きながら暦学研究に没頭しました。
「時中法」を作成し、官歴よりも正確であることから名声が上がり、1795年(寛政7年)幕府改暦で招請されるが応じず弟子を推挙しました。
剛立が三浦梅園に宛てた手紙が残っていますが、その中で7年後の正月1日に皆既日食があるということを予言しています。
またその中で月の地図を描いていますが、これは日本最古の月面地図だそうです。月面クレータにASADAという彼の名前がついています。
このような偉大な人物が、大分県の先哲として居るということは全く知りませんでしたが、今より昔のほうがよく知られていたようです。たいへん面白いお話でした。
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by hirose580 | 2015-12-11 07:12 | 歴史 | Trackback | Comments(0)